思考の途中

ああ、日付が変わってしまっているので戻しました・・・
今は10日。でも9日とゆーことで書き込みます。
でも以下の内容を考えていたのは前日の8日。
どうも混乱してますが。


先日借りた浜本満氏『秩序の方法』の中で、「行為の意味を問うことは無意味(大意)」ということが書いてありました。
そんなんいくら学者が意味づけても、やってる本人たちには関係ない、という理由でした。
さて、それは論理的に正しいか。
例えば、自分は生物学を学んだからこう考えるのかもしれませんが、メンデルの遺伝の優性の法則を考えてみます。
豆の色と形が異なるエンドウマメを掛け合わせ、子孫にそれぞれの形質がどう遺伝するのかということを証明したものです。
その結果、緑色は黄色に、丸型は皺型に、それぞれ優性であるということが導き出されました。
ところで、彼がこの法則を発見したのは、要するに成立する対象を調査したからです。
成立しない対象としては、ツユクサの白色の花と赤色の花を掛け合わすと中間色であるピンク色の花の子孫が生じるなどの、中間雑種があります。
また、トウモロコシやヒトの身長及びヒトの肌色を決める遺伝子、ポリジーンもそうです。
ショウジョウバエの翅の形などが決定されるときにしばしば生じる連鎖もそうです。
以上3点は、メンデルの法則が通用しません。
だからといって、それではメンデルの法則が正当ではないのか、と問えばそうでもないのです。
要は、他の要因が働いているだけである、ということです。
さて振り返って浜本氏。
「行為者は、そういうものだからそれをしているのであって、その行為の意味には関心がない。よって行為の意味を問うことは無意味である(大意)」と述べています。
先ほどのメンデルの法則にしたって、対象とされている生物にとっては、法則が発見されていまいがいようが関係なく子孫に形質を遺伝しています。
ではメンデルが法則を発見したのは無意味なのか?
確かに遺伝の法則を応用する事はできました。しかし、その応用のための法則の発見ではなかったはずです(当然ですが)。
意味を問うために応用を考える必要があるならば、民俗学ではどうか。
応用の可能性が低く、むしろナショナリズムに利用され有害にもなり得る民俗学においては、その応用の効力をもって、論理の正当性を説くのはナンセンスでしょう。
そこで思い出したのが、先日トラックバックしましたが菅先生のhttp://suga.asablo.jp/blog/2006/03/16/291753/tbに書かれていた原先生の最終講義のお答えです。
「一番問うべき問題は、民俗学というのは役に立たない学問で良いじゃないかということ」
・・・さて、尻切れトンボですが、今のところ思索はここまでです。
浜本氏への反論にすらなっていません。
どちらかというと、浜本氏の著作の一文から発した思索を垂れ流してみただけです。
なのでまだオチはついてないです。
ちょっとここらへんをこねくり回そうかなあと。
なので、浜本氏の著作をもうちょっと読み込む必要があります(誤読の怖れがありますので)。
また、原先生の著作も読んでみようかと。
なにかつかめるといいなあ。


ついでに。
自分の方針がまだゲル状でプルプルして固まりきってないのですが、思い付きを書いてみます。
「行為者にも説明不可能な盆行事の説明に対する地理的分布からのアプローチ」ってはどうだろ。
プルプル。