「あなたの歴史経験」と「私の歴史理解」

前日は諦めましたが、この日はぜひ口寄せを頼もうと誓った自分と同行者。
さんざん誰にしようか悩み、よし、と決断。
テントの前で3時間待ちました・・・待ちましたが、これ以上仮に1人だけ口寄せしてもらってもその間に帰りの夜行バスに間に合う電車に乗れなくなる時間となってしまいました。
いざとなればタクシーを使えばいいのですが、そこは悲しい学生の二人。
んな余裕あるか*1
次が我々・・・というところで残念ながら諦めました。
ですが、並んで待っている間、何人かの口寄せを聞いていました。


以下マニアックなので読みたい方はどうぞ
(表題はid:monodoi:20060725にあった言葉です)
どうやらイタコの口寄せは、以下の過程を経ることがわかりました。
口寄せする対象の没年月日を尋ねる→唱文(このなかに没年月日を組み込む)→「死者」からの言葉を告げる(「自分も死ぬまで仏は信じなかったが〜」とかなんとか)→依頼者による「死者」に対しての託を尋ねる→その問題に対する「イタコ」からのアドバイス(自分の経験や考えなど)→「死者」からの言葉を告げる(「自分も死ぬまで仏は信じなかったが〜」とかなんとか)→唱文→手を叩く(「死者」が帰ったことを示すか)→世間話→支払い→手を叩く(ひょっとしたらここで「死者」が帰ったのか?)
最後はなんだかうやむやに次の人の番になっていました。


イタコの口寄せを聞いていて、依頼者の質問に対する解答が、どうも「死者」ではなくイタコ自身のものであるような気がしてなりませんでした。
例えば、亡くなった娘が残した子供の進学について「大学にやろうか専門学校にやろうかずっと悩んでいた」という相談に対し、イタコは「どこに行くにも試験がある。その試験を成功させるためには死者ではなくアマテラスに祈るべきだ」と答えたり。
また幼い頃に母を亡くした男性が「(自身の)嫁が持ってきた○○の土地に家を建てるかどうかで揉めている」と相談すると、イタコは「自分も○○に家を建てたがどうもよくないことが起こる。そこで調べて見ると、(古墳かなにかで)昔死体が埋まっていたことがわかった。家を建てるならばよく調べることだ」と答えたり。
どうもストレートに質問に答えていません。
そうしてその後に、思い出したように「私も死ぬまで仏なんぞ信じていなかったが〜」などという「死者」からの言葉と思われる決まり文句を唱える。
ですが聞いている本人にとっては、どうもそのイタコの答えをも含めて「死者」の言葉だと感じているように思えました。
順番待ちしている時に前の口寄せを聞いている間に嗚咽したり、イタコの答えに対して涙を流したり。
遺族に対してイタコが「死者」の子供の名前を聞いた時に、「そんなことも忘れたのかい」と泣き崩れる場面もありました。
どうやら依頼者にとっては「イタコの口寄せ」は、ある程度実感をもって受け入れられるものらしい。


果たして。
自分にはいわゆる「霊感」がないらしく(もしくは感じないらしく)、また「神秘体験」というのも経験したことがありません。
自分にもある場所に立って荘厳な雰囲気を感じたり、また根拠が希薄な不安なものを感じたり、そういうことはあります。ですがこれらを「霊感」や「神秘体験」とは言いますまい*2
要するに、自分は「霊感」とか「神秘」とか「幽霊」とか「祟り」とかいうのが、どうも実感できないのです。
その反面、「霊」を「感じる」と主張する人々がいることも知っています。
実際に「見た」「感じた」という友人・知人も何人かいます。
同行していた学生さんにもそういう感覚に敏感なお友達がいるそうで、数々の体験は妙に現実味がある説明がなされた、と教えてくれました。


さて、この構図。
ある人には感知できない感覚を、一方ではある程度の実感と受け止める人々がある。
自分としては、その感覚の主体の存在が実か虚かということを判断できず、またできたとしてもその判断を目的とはするつもりがありません*3
それよりもむしろ、彼らがそれを「実感できる」ものとして認識している、という現象に興味を抱きます。
id:monodoiさんがid:monodoi:20060725で述べておられた「あなたの歴史経験」と「私の歴史理解」という問題提起、また、id:monodoiさんも指摘していたid:Z99さんのid:Z99:20060718やid:Z99:20060724での記述を読み、イタコや彼らに口寄せを頼む人々と、それを「興味深げに」眺めている自分との関係を省みています。

*1:この時点で自分の所持金約4,000円

*2:ゲニウス・ロキってのは、ひょっとしたらこう感覚からくるものなのでしょうか?

*3:そういえば、小松和彦も『憑霊信仰論』で似たようなことを言っていました