全部が同じ方を向くのが気に入らない

WBCに優勝した日本チームにスポーツ功労賞が検討されているそうです。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200603/sha2006032301.html
・・・まあ、確かに。いろいろ不利な点もあったにもかかわらず優勝できたのは目出度いことです。
で、なぜ野球?
トリノの金メダルの荒川静香選手は総理大臣賞。
この違いもいまいちわかりません。
そしてあんだけメダルをとったトリノパラリンピックの大日方選手は?
ん〜・・・なんか、とってもマッチョな思想が見え隠れしているようなきがします。
杞憂ならいいのですが。


今日は学校へ。
例の野田市の打ち合わせでした。
やってもやっても仕事がある〜・・・まあ、そういうもんですが。


そのあと、去年とってた資格の授業の学生さんと助手さんとで呑みでした。
いやあ、免疫系の話でもりあがるなんて、今のガッコでできるとは思いませんでした。
なつかしい。


図書館で、自分の関心を改めて見つめなおしてみました。
そもそも、前の大学時代から、自分の関心ごとは「なわばり」でした。
どこからどこまでが自分(たち)の陣地か。
どうしてそこが境界線なのか。
コンラート・ローレンツの『攻撃』からも影響されてます。
で、人間のなわばりといえば、ウチとソト、所有と非所有、ヒトとヒトでないもの、の境界。
なんかコモンズとちょっと被りそうな。
一方、自分が民俗に興味を抱いているのは、そもそも「何のためにそれをやっているのか?」ということのようです。
すでに必要でなくなっているものは、滅んで然るべきだと考えています。
ここらへん、生態学を習った名残でしょう。
その環境に適応できないからその種は滅ぶのであって(たとえ環境が改変されていたとしても)、すでに彼らがいなくても生態系のサイクルは機能していることになります。
そして、自然状態で生息できない種をストックしている意義が、いまいちわからない。トキとかモウコノウマとか。
「遺伝子のストックだ」という説明もちらほら聞こえますが、それになんの意味があるのか。単に情報としての保護か。
翻って民俗を考えてみると、なぜ残存する民俗事象は生き残っているのか?
科学的に、生物学的に考えても、それをやってもやらなくても同じです。
なのになにがそれを続けさせているのか?
やらないと気持ちが落ち着かない、という意見もあるようです。
「座りが悪い」とも。
この、「座りが悪い」という意識を掘り下げてみる必要が、自分にはあるのかもしれません。
どんな状態が「座りが悪い」のか?どのような方法で解決するのか?
ひょっとしたら、線引きや意味の明確化をすることで解決するのかもしれません。
で、自分が今まで追いかけていた盆行事。これは、「先祖」と「先祖以外」とを分けるものなのかもしれない。
と、なんとな〜く曖昧に、先が見えた気がします。
図書館ていいですねぇ。