ようやく出る気になったのに・・・

先生来ないし、授業・・・


今日は授業でした。
6限目と7限目。
それまでの時間は、資料をまとめてました。
「留守墓参り」、つまり、盆に先祖霊を迎えたにもかかわらず、送るまでの期間に墓参りをする民俗です。
先祖は迎えて留守になっているハズの墓を参る行為です。
で、それが日本全体に、どのように分布しているのか。
文化庁で1969年に調査した結果を分析してました。
が、使えねえ・・・
なんとか今日一日で東北のチェックはしたのですが、墓参の対象はだれか、なんて・・・気にしたヤツはいないのか。
結局は分布域がわかる程度になりそうです・・・どっかで有効な証言、拾ってないかなあ・・・


昨日に引き続き、浜本満『秩序の方法』を読んでました。
クランうんぬんはとりあえず抜けて、今度はある集団で知識が共有されている、とはどういうことか、という議論です。
なかなか本論にたどり着けない・・・と半ばげんなりしてましたが、読み進むうちに、これが意外と有意義なことがわかりました。
個人個人が発する言葉、というのにはある共通なものがある。それがすなわちある集団に属するということであり、

決してある集団にはじめから共通する文体があるわけではなく、ましてや個人個人が自身にその共通するものを予め持っているものではない、

というもの。
以下引用すると


「ちょうど出来事としての語りであるパロールの上に見て取る事のできる体系性ラングが、まさに出来事としてのパロールの個別性を超出しているその存在性格のゆえに「社会的なもの」とされていながら(・・・)後のチョムスキーらの言語学において顕著なのだが(・・・)同時にまるでここの語り手に内在するシステムでもあったかのように扱われてしまったように、・・・」p.52-53.註11)より


・・・門前の小僧なので、細かいとこはよくわかりませんが。
まずパロールってのはなにか?ラングも聞いた事はあるがよくわかりません。
チョムスキーってのは人の名前。言語学者です。人間が言語を話すときに、その言語の法則にしたがって文節をつなげる、ということだったように記憶してます。
ちがうか?
ともかく。そうか、ああいう考え方は固定的なのか、と気がつきました。
ある個人には、その文化に応じた文法的規則が内在している、という考え方。
「創られた伝統」だとか「フォークロリズム」だとか、「民俗で研究するのではなく民俗を研究する問題」だとか、というのはこういうことだったのか、と、初めてわかった気がします。


まあ、直接は今の修論には関係ないけどね。




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・・・売れるのか?